両親と私 新入社員時代、父の死

大学を三月無事卒業しました。三月早々、内定した会社から、新入社員研修の案内が、送られて来ました。四月一日本社で入社式終了後、横浜の鶴見工場で、研修資料の案内でした。いよいよ社会人としてのスタートだと、緊張と、不安、好奇心、ファイト、色々と複雑な期待感が高まりました。四月一日、小心な私は、緊張感一杯で、入社式に向かいました。入社式は大卒が40人、高卒40人のうち本社採用の20人が参加して、採用100人中、60人での入社式でした。大幅に増加での入社式は会社として、初めてだったので、社長以下役員は張りつめた緊張感のある式でした。そして研修に参加、横浜工場で研修を受け、最後の研修は山梨工場でした。最終日に辞令の交付を受けることになっていました。当日、総務課長が一人一人に配付されました。福岡支店、広島支店、遠い支店に配属された人のボヤキが聴こえて来ました。私は、東京育ちで、小学校から大学まで、東京なので、当然東京勤務と思っていました。辞令を渡らせられて、びっくり、名古屋支店勤務を命ずる。と書かれていました。初めての独立しての生活、両親、姉は心配で、私に出来るか不安一杯だったようでした。初めての一人暮らし私も不安でしたが、自由にやれる好奇心、一本立ちする期待感も感じていました。辞令を受けたのが四月24日で五月一日着任を言い渡されていました。すぐに準備にかかりました。東京、名古屋間は新幹線が開業したばかりで、特急、急行、夜行準急があり、迷いました。生活用荷物の送り先等、相談の電話を名古屋支店に、問い合わせしました。総務課長が分かり易く説明してくれました。嬉しかった事は、新幹線で来て、名古屋駅からタクシーで来てください、費用は会社で清算して支払いしますと言われました。新幹線は開業間もなくで、中々乗れない、貴重な乗り物でした。東京を離れる辛さが、幾分薄れたようでした。そんな気持ちで五月一日名古屋支店に着任しました。新幹線東京発に乗車して席に座ってる時、姉が勤務先から見送りに駆けつけてくれました。発車間近でしたが、奇跡的に会うことができました。そして、名古屋支店に無事着任出来ました。支店長、総務課長、営業課長から注意事項、社員としての心構え、そして営業課長が、私の教育係となるとの事でした。私の所属は営業一課と言い渡されました。営業一課は会社の売上60%以上占める主力となる部でした。入社内定を頂い時の、親父に恥をかかせないを、改めて思って、会社に貢献を誓いました。昭和四〇年は、オリンピックが終わって、景気は多少沈滞傾向でしたが、政府の所得倍増計画等、景気政策が浸透し、高度成長ムードが高まり、私の入社した会社は、建材メーカーで、建設関連でしたので、時流に乗って、忙しい毎日でした。新人の私は、自動車免許、取得が先ず第一と勤務中に行かしてくれました。仕事は同行セールスが主でした、呑み込みの悪い私は苦労しました。建築図面から、自社の製品の数量を見積もりは必須で文系卒の私は苦手でした。課長から、本社ば役に立たないのを送ってきたと、直接言われ、早く覚えて、見返してやろうと、密かに思いました。一緒に入社したK君は工業高校卒なのでした、私より早く仕事に付いていたので、戦力になっていました。彼から図面の積算方法を習いました。彼は建築に関する資料を貸してくれたり、力になってくれました。名古屋支店での半年余りは、辛い日が続きました。K君は四つ下でしたが、気が合い、唯一の救いでした。そんな私でも、半年後には、一通り出来るようになり、担当先を貰いました。岐阜の多治見、中津川方面、名古屋発の中央線沿線でした。田舎まわりでしたが、嬉しかったです。名古屋支店の社員は私の課が13人で主力で、他の2つの課は7人、4人.、内勤7人、総数30人余りだったと思います。営業主体の支店でしたので、飲酒、麻雀、盛んでした。私も、付き合いさせられる事も多く、すぐに慣れ、二年先輩のYさんとは、親しくなり、よく飲みました。時には激論を交わしたりして、名古屋支店の実績向上を語りあい、私の親しみやすい先輩として、私の社会人人生の成長して行く過程です欠かせない尊敬する人でした。所得倍増計画は浸透して、私の会社も給料は、大幅にアップされ、その恩恵に預かりりました。入社以来、必死に、基礎知識の習得、社員間の付き合い、営業職の実績成果、を目指して頑張りました。実家の父母の事を考える余裕はありませんでした。私を名古屋に送り出し、病身の父を抱えて、母は不安で大変だったと思います。私は名古屋で、自分の事しか考えない、今思うと親不孝な息子でした。ただ、ハガキを出して、会社に慣れて、何れ、一流の営業マンになる、そんな成長過程を、何回か報告を知らせました。父は便りが着くと、何度も読み返して、喜んでくれたようでした。身勝手な言い方をすると、親を安心させられるのも親孝行だと、自分を楽にさせています。サラリーマン生活は順調に進んで、4年目を迎えた時、大卒のは新入社員6人が入って来ました。支店総数が60人余りになり、社員旅行も貸切バス1台での旅行は難しい状態となりました。若手が増え、寮生活は1年先輩が1人、同年齢の1年後輩が2人、年下3人計7人から新人が6人増え、、と寮母さん、若いメンバーで始まりました。寮のまとめ役は私が中心で進めました。私の提案で全員の誕生日には祝いをする事、秋の社内旅行で寮生での寸劇(コント)を実施する事等、を提案しました。社内の一部から学生気分が抜けてないという意見もありましたが、前に進めました。旅行での社内風刺のコントの脚本を書き、寮生皆んなの協力のもと、実演しました。結果は大盛況でした。思った以上の評価を得ました。又、会社の歌として、替え歌を作って、歌いました。歌は名古屋支店の社歌として、私が名古屋支店に在籍した28年間歌い続けられました。仕事にも、自信を持って、取り組み、見返してやらたかった課長からも、上司、同僚からも認められ、自由にやらせて貰い、忌憚ない意見も言え、ストレスの感じることが少なく、働き易い、良い会社に入社でき、よかったと思いました。唯三年目の時、父の死という悲しい出来事がありました。京都に日帰り出張で、夜遅くに帰宅、姉から手紙が届いていました。姉が久々に実家を訪れたら、父の様子見て、大分弱っているように見え、近い将来、覚悟しておいた方がいいようだと書かれていました。何となく、気になって、翌日、父の様子を見に行こうと思って、休暇届を出し、退社後、新幹線で東京に帰りました。突然の帰郷に両親は驚きましたが、元気な私を見て、名古屋での順調な私の話に、喜んでくれました。その当時、72歳の父はかなりの高齢だったと思います。思っていたより、元気でした。翌日、両親が高齢なので、様子を見るだけだったので、名古屋に帰るつもりでした。翌日夕方父の様子が急変し、夜7時頃無くなりました。余りに突然の急変に、母と姉は茫然としていました。父の死に立ち会えたのは、せめてもの慰めと、父の穏やかな死に顔を見て、思いました。長男の私は、悲しみを惜しむ暇もなく、通夜、告別式、葬式の準備、親戚、役所関係、との連絡等、大忙しでした。弔問には、父の役所関係、私の友人、父方、母方の親戚、多数の弔問客が見えて、盛大に執り行われました。母は一人になりました。61歳でしたが、健康で、元気でした。隣の貸し家が空き、姉夫婦が入り、二階に母が住み、一階を貸し、二階は隣と行き来できるようにして、姉夫婦と半同居の形となり、私は名古屋で、仕事に集中することができました。話は元に戻りますが、仕事に自信が持て、先輩達からも認められ、、支店長、課長にも、自由に意見を言う、今思うと、生意気な社員に成長していました。6年目を迎えました。高度成長の時代の流れに乗って、本社は全国各県に営業所を設置する計画を発表、名古屋支店には富山には出張所、三重に連絡所があり、岐阜に出張所を検討する事になりました。名古屋支店はベテランの方が多くいましたが、尻込みしていました。私は岐阜の田舎主体の担当でしたが、候補の一人になりました。ふと思ったのですが、地区全体を任せて貰えるのなら、やってみたいと、思いました。思い切って、支店長に立候補の意思を伝えました。即決定となり、28歳でしたので、責任者という肩書きでした。名鉄新岐阜駅から1キロ弱の所にあるビルの二階に事務所を構え、女子事務員を採用して、スタートしました。今回はこの辺で、次回は管理職としての役割、母との距離等を書きたいと思います。