両親と私 母との距離 管理職の私

昭和46年3月に岐阜営業所が開設され、1年が経過しました。岐阜市大垣市、飛騨の高山方面、東濃は多治見市から中津川市まで、愛知県も一宮市犬山市と広い範囲を広く担当することになりました。仕事を受注することが、楽しくてたまらない、企業戦士に仕込まれていったようです。岐阜営業所の最初の1年の実績は、努力の結果、前年の実績を倍以上超え、250%だったと思います。新設営業所の予想を大幅に上回る成績は本社からも評価されて、翌年責任者から営業所長に昇進することなりました。社員も新卒を1人補充され、体制が整い、順調に実績を上げて行きました。東京の母は、姉夫婦との同居は寂しさをまぎらわしたようで、元気を取り戻しました。姉に長男が誕生、母は大忙しとなり、私も安心して仕事に集中する事が出来、営業成績は上昇の一途を辿って行きました。会社は高度成長の波に乗り、採用枠を大幅に増員し、若い仲間達か毎年増え、支店は活気にあふれて、仕事も充分こなし、余暇も行動的に、登山、旅行、スケート、釣り、キャンプ等、楽しむ、若手の私達が望んでいた活気ある組織体になってきました。私自身も、学生時代に戻ったように、青春を謳歌させて貰いました。岐阜営業所の人員も、男性4人と女子事務員1人となり、営業所らしい雰囲気になりました。この間私は31歳の時、結婚し、愛知県一宮市にマンションを購入、34歳に長男誕生と、私生活も順調に進んでいました。36歳の時に課長に昇進の辞令を頂きました。同期では2番目でしたが、名古屋支店では、異例のスピード出世だと祝福されました。同時期に父の13回忌を祐天寺で行いました。母は記念の回忌として、立派な式にしたいと、多くの親戚と連絡を取って、多くの親戚が出席してくだされ、盛大に行う事が出来ました。親戚の皆様は成長した私を見て、喜んでくれました。私は一人前に育ててくれた両親に、改めて感謝の念にからめました。仕事も遊びも、楽しくてたまらない、サラリーマン人生の中でも、絶頂期だったと思います。一方、母の住んでいる東京では、姉から家を相続したいと母に依頼してきました。当時は相続に関しては長男が、強い権利があり、母は否定的でした。入社以来親元を離れて、両親の面倒を見ること無く、仕事に打ち込んでいる私は、二軒ある一軒譲ることにしました。母の生存中に譲ることによって、母を大事にして貰うことが出来と思った事と、会社の命とはいえ、親孝行が出来ない事への、罪滅ぼしだった思っています。私達の父の時代の人達がお国の為に、命を掛けた、今の私達は会社に命を掛ける、そんな企業戦士に仕込まれつつある私は、母との距離が離れていくような、なんとも言えない、寂しさを感じました。姉弟関係が少しづつずれて行きそうな感じになりました。だが、長男が3歳になる頃から、毎年正月とお盆には3〜4日、家族で帰省して、母、姉家族との、友好な関係を保って行きました。45歳に名古屋支店の建材営業課長になりました。営業課長の仕事は大事な得意先である販売店の販売店会の運営サポートをする仕事、そして建材業界の同業界に支店長と同席して、競合する懸案の利害を決する、大事な仕事でした。販売店会のサポートは、長く岐阜営業所長を経験したので、案内状の作成等の仕事は難なくこなす事ができました。唯、遊びの多いのには驚きました。友好の為の催し、ゴルフ、飲み会が盛んでした。接待をするのと違って、気が楽で、平日の仕事中の役得でした。そして3年後、48歳で支店の副支店長に抜擢されました。建材部門のトップになる重責を担うことになり、戸惑うばかりでした。若干の私が、業界のトップに立つ人と渡り合うことには、苦労しました。唯、長く業界の幹事役を経験したので、なんとか務める事が出来ました。約3年間やりたい事も沢山ありましたが、名古屋支店の改革も、思うようにできずに経過し、名古屋支店に28年もいる、私では、名古屋を変えるのは難しいと判断さられのか、初めての転勤が言い渡されました。東京支店副支店長兼北関東営業所長勤務を命ずの辞令を頂きました。心残りは、名古屋支店でやり残した事が多かった事です。唯、この間、力不足の私を支えてくれた方々には・感謝の念でいっぱいです。今思うと、入社以来28年間、ストレスの感じる事少なく、楽く仕事が出来たのは、この方達のお陰と感謝しています。多くの人が、3〜5年で移動している中、28年間で、初めての転勤が、私が生まれ育った東京と水戸兼務、恵まれた初転勤でした。母の近くで少しだけでも、親孝行が出来るそんな思いでした。東京支店は浜松町、北関東営業所は水戸にあり、辞令が一月、4月に息子の高校進学することから、とりあえず水戸に単身赴任することにしました。息子が土浦の高校に入学することになり、土浦に住むことにしました。3か月弱の単身生活から、家族揃っての生活に戻りました。北関東営業所は水戸市の三井ビルにあり、一流会社の出先が殆どで、信頼受けるのに好都合な営業所でした。単身赴任した時には、三井ビルにある会社に勤務しているという事で、保証人なしで、ワンルームを貸りる事が出来ました。そして、2年弱で兼務が解かれ東京支店建材工事の責任者として、東京勤務になりました。長いこと名古屋にいて、名古屋の水が私にピッタリ合ったのに、東京で生まれ育った私と東京の水が合わない、暫く離れていたのが原因か、不思議な巡り合わせを感じました。次回退職と転職、母の介護を書きたいと思います。