亡き父と私、そして息子と私

 私は父48歳、母36歳の長男として昭和18年1月11日に誕生しました。

父にとって長男の誕生は、この上ないような喜びだったようでした。

昭和15年に長女(私の姉)が誕生してから3年、念願の男子誕生に我が家は沸きました。酒好きの父は毎晩の晩酌の量は増えました。

年寄り子として、私は大事に育てられ、強く叱られた事など、まったく無いように、甘やかさられて育てられました。

このことが、幸いだったようで、私は楽天的な性格になるように育てられたようです。人生、振り返えって見ると、楽しかった事ばかりが思い出されるような幸せ者に育ったようです。父は私の進学や、趣味、又、私の就職活動にも力になってくれました。当時、東証一部の上場会社への入社は厳しいと思っていました。私も就職活動は苦戦の連続でした。そんなとき、父の友人から、建設関連の建材メーカーが40名の新入社員を募集しており、その会社の役員と親しくしており、良かったら紹介してくださるとの話を頂きました。その話に私は飛び付きました。運良く、その会社に入社させて頂きました。新入社員研修後、赴任先の辞令が発表されました。東京で生まれ育つた私、関東勤務と思っていましたが、名古屋支店勤務、一部営業を命じると言う辞令でした。一部とは会社全体の60%以上を売り上げている1番大きな部でした。名古屋勤務の辞令は、私にとっては初めての一人暮らし、私には、ちょっぴり、好奇心がありましたが、両親にとってはショックだったようでした。いやだったら、辞めて戻ってくればいいよ、過保護の両親は、名古屋で一人暮らしは、私には無理だと思っていたようです。私は紹介してくださった父の友人に迷惑をかけてはいけない、私には、仕事で頑張る事が、恩返しだと思っていました。そんな気持ちが良かったのか、幸か不幸か名古屋の水があったのか、入社した会社の仕事があったのか、全てが吉と出たようです。入社2年目ぐらいから、若手のリーダー的になっていました。支店長からも可愛がられ、入社後28年間、転勤無しで、名古屋支店勤務かなりました。出世も同期の中でトップクラスでした。入社6年目で、28歳のとき、岐阜営業所長、38歳で、名古屋支店、営業課長と、異例の出世でした。

最近、歳をとったせいか、昔の事を思い出します。幸いなのは、楽しかった思い出ばかりが思い出されます。両親に大事に育てられ、楽天的な性格を身に付けたお陰と、両親に感謝するばかりです。

父は都庁目黒区役所勤務していました。60歳前後に胃潰瘍脳梗塞と大病を患いました。

脳梗塞での入院した時、私は大学三年の時でした。母が付き添い、病院泊まりとなりました。

姉は勤め帰り、私は学校帰り、毎日病院に通いました。大変でしたが、1か月強の入院で無事、退院することができました。父に孝行できたのは、この時ぐらいでした。

父は家族を支える為、70歳まで勤めてくれました。私は大学を卒業、22歳で就職しました。

そして、いきなり、名古屋支店勤務となりました。私は老夫婦を東京に置いて、名古屋暮らしとなりました。病気がちの父は好きな酒は、晩酌は欠かさず、暫く続けたようで、私が、名古屋で新入社員で頑張っている様子を書いた手紙を何回も、飲みながら、喜んでると母が言ってました。

父は社会人となった私と酒を呑み交わしたかったのではないのかと思います。

勤務先が名古屋となり、月に2〜3度の。帰京を喜んだ父の顔が思い出されます。来年1月私も80歳になります。 現在、私は家内と息子の3人家族で暮らしています。

私はナトリュム不足の病を抱え、リハビリにジョギングをする必要かあります。息子も運動不足のカバーにと、付き合ってくれています。

又、毎週土曜日は、ビールで乾杯、細やかながらの酒宴を楽しんでいます。

私が父にしてあげれなかった付き合い酒、この事が、唯一、悔やまれます。せめてもの気持ちとして、親父が愛飲していた、酒、月桂冠を、お墓参り時に父と乾杯の真似事をすることで、許して貰うようにしています。親父、私、息子三代の酒宴の真似事で、親父に乾杯して、お許しを願っています。