父の人生、母の人生、私の人生

父は明治28年に生まれました。そして昭和43年、72歳で、生涯の幕を閉じました。父の人生は波瀾万丈の人生だったと思います。幼い頃、父を亡くし、母と兄との3人家族だったそうです。母の兄、父の叔父は一流商社の代表で、経済的な支援はしてくれたようですが、家庭的には、肩身のせまい生活で、不幸な幼年時代を過ごしたようです。その後祖母が再婚し、父は15歳の頃に、東京の親戚に預けられ、肩身のせまい中学時代を過ごしたそうです。ただ、その頃、生涯の親友のkさんとの巡り会いが父の人生の救いになったようです。kさんは父より不幸な身の上の人生を歩んできたようで、家が貧しく、中学校行かせてもらえる環境でなかった為、篤志家の家の書生をして、学校に通わせて貰っていたようです。明治時代から大正時代にかけて、母子家庭等家庭環境が不幸な人を、見くびって、いじめるケースが多かったようです。kさんは秀才でしたが、勉強をしたいが為に、書生になっているのを、いじめる原因なるような時代だったようです。父は、幼い頃から、鍛えられていたようで、腕っ節は強く、kさんをかばったようです。境遇の似た2人は、強く結び付き、生涯の親友として親交が続きました。2人は何れは、不幸な身の上から成功の道へを誓ったそうです。kさんの影響を受けて、父は文学の道を模索して、作家を目指していったようです。kさんは順調に一高、東大とエリートコースを歩いていき、その後も、一流銀行に入社して、若い頃描いた成功への道を歩んで行きました。父は親戚の勧めで中学を卒業後は農業の学校に進みました。父には農業を勧めて、跡取りにさせたかったようでしたが、卒業後、自分の夢としての文学の道を捨て切れず、会社務めを何回か続けながら、夢を追い続けたようです。上司との巡り会いも悪く、一刻な性格の父は、衝突が多く長続きしなかったようでした。更に、当時死の病と言われた肺結核を患い、自殺を考えた事もあったと言ってました。そんなどん底に陥っていた時、親友のkさんに助けられたようです。kさんは当時一流生命保険会社の役員になっており、父の病気な回復を待って、kさんが役員をしている会社に父を入社するよう取り計らってくれました。数年後、その生命保険会社のなにか問題があり、役員の多くが辞職する騒動に、kさんと共に、父も辞職したそうです。その後、父は何かの縁で、目黒区役所に勤めることになり、この事が転機となり、好転していき、40歳を超えて、同じ佐渡生まれの28歳の母と結婚しました。45歳に姉が生まれ、48歳の時、私が生まれました。私が小学校に通う頃は50歳の初老を迎えていました。それでも、キャンプ如きの遊びをしてくれたりして、世間の若いお父さんと同じぐらい、家族を大事にしてくれました。自分の幼年期の不幸を、子供に味合わせたくないという気持ちの強い現れだったと思います。父の役所務めは模範的な職員でした。家庭的でしたが、厳格な厳しい父親ででした。殆ど毎日定時に帰宅して、家族揃っての夕食、唯、酒豪で、毎晩晩酌は続けました。日本酒3〜5合静かな飲み方でした。家で飲むのが好きで、会合では、一次会で帰り、家で飲むのが好きな家庭的な父でした。この事からも、よほど不幸な目にあった幼年期だったのだと思います。役所務めは、上手くいったようで、性格的にもあったようです。数年後には、出張所長に抜擢されました。区役所には12か所前後の出先機関があり、各出張所は7〜8人のメンバーで構成されていました。人付き合いの苦手な父は、出世より、この地位が気に入って、出張所長としての定期移動を希望したそうです。この職を選んだ事で、自分の趣味、文学への夢を、追い続ける事が出来、役所内で読書家の集まりで、同じ趣味の仲間たちとの会話、雑談は、幸せのひと時だったと思います。作家としてのデビューは叶う事無く、文章の上手な人で終わったようです。唯、遠方への転勤も無く、娘、息子の受験、就活にも力になり、家庭的には、充分、責任を果たしてくれました。立派な父親だったと思います。不幸な少年時代、Kさんと誓った成功への道は、仕事をしながら、自分のやりたいことを充分にやり、家庭も並以上の生活を送らせる。人としての責任を充分果たせた事で、kさんとの誓いは果たせたのではないのかと思います。父は人生前半の幼年期、少年時代の家庭的に不幸な目にあい、青年期には大病を病み、散々な目にあいましたが、人生後半、成功したkさんの世話してくれた会社務め、その後の役所務め、ハンデを背負っての中、自分のポジションを懸命に確保して、家族を支えながら、趣味を生きがいにすること、自分も家族も満足出来、立派に責任を果たしたと思います。私には、誇りに思える父を持てたと思います。母も、父の亡き後、長い間、公務員の恩給で、楽な生活を送らせてもらいました。父自身の日頃の言動からも、不幸だった幼年、少年時代の辛さ、辛抱が後々の病、肺結核胃潰瘍の手術、脳梗塞等の大病を克服して、復活させてくれたようだと、言ってました。プラス思考に変え、自身の人生を満足して、母の精一杯の介護を感謝して、家族三人に見送られて、逝きました。私の身勝手な想いかもしれませんが、父の亡き顔は満足そうな、いい顔に見えましよ。人の人生、価値は、その人が振り返ってみて、本人がやってきた事に、満足していれば、本人の主観的な想いで決まる。それでいいじゃないかと思います。次回母の人生を書かせていただきます。