両親と私 幼年、中学生時代

コンビニ経営を6回投稿しましたが、この辺で、私が幼い頃からからの、両親と私の関係、そして私自身の生い立ちを書かして頂こうと思います。私は昭和18年1月11日、父48歳、母36歳の長男として、誕生しました。3年前に、姉が生まれていたので、4人家族になった事と、男の子の誕生を、父は、ことのほか、喜んだようです。都庁に勤めていた父は明治生まれの厳格な父親でした。公務員らしい、麻雀、パチンコ等のギャンブルは一切やらない、読書家で、作家志望の、夢を持ち続ける親父でした。酒は好きでした。半端なく大好きでした。父は幼い時に父親を亡くしたせいから、家族揃っての夕食をこだわっていました。遊びに夢中になっている私を、母が迎えに来た事を、思い出します。勤め先の役所は夕方5時定時で帰宅、晩酌は毎晩、日本酒5合前後、私達家族の夕食時には、楽しそうに飲む父、母と二人の子が夕食食べながらの会話、家族揃っての夕食は、中学校迄は続いていました。3歳上の姉はいつまでも縛られる事に抵抗を感じる年頃になり、時々反発しているようでした。小学校に通う頃の、私から見れば、50才まじかの、初老の父が機嫌良く話しかけてくれるのが、当時の幼い私にとって、家族の幸せに思え,嬉しい毎日だったような気がします。又、深く残る思い出があります。

当時、目黒区役所には読書家が集まって、語り合う仲間がいたようです。その中の一人、Oさんは、その後、お役所作家として話題に乗り、芥川賞候補にも上がった童門冬二さんがいらしゃいました。童門さんはお役所で、仕事でも優れた方で、目黒区役所から東京都庁に抜擢され、美濃部知事の秘書を勤めて、都知事を支えたそうです。新潮社賞を受賞した時は父に本を送ってくれました。父は我が事のように喜んでる姿が、今も浮かびます。私が社会人となり、名古屋勤務当時、童門冬二さん公演のチケットが手に入って、行く事になりました。当日早めに伺い、思い切って、講師控え室で、童門先生の目黒区役所時代の友人の息子ですと、係りの人に名刺を出し、お会いできるか、お願いしたところ、お会いすることができました。童門先生はかなり年上だった父を懐かしく思い出してくれました。私の自宅の住所を聞かれました。数日後童門先生から、サイン入りの本7冊の素晴らしい本がが送られてきました。

まさかとは思う、出来事でした。その中の上杉鷹山上下は何度も読み返してみる価値のある本でした。そんな先生と役所時代、文壇論議をしていた父を誇らしく思いました。私の幼い頃の母は女性としては、珍しい、おしゃれを全くしない、倹約家でした。贅沢な暮らしはしない、質素な生活をモットーにする、明治生まれの女性でした。佐渡生まれの母には大きな目標がありました。それは住み着いた、祐天寺で家を持つことだったようです。日頃の節約の努力が実って、私が中学生の時、持家と隣の家まで購入することができました。家の事は、母任せの父は大家になった事を大喜びしていた事は記憶に残っています。父は節約家の母と逆で、旅行好きで、家族旅行として、箱根にある都庁の保養所に良く連れて行ってくれました。私が小学六年の時には父が六〇歳だったので、私の父を祖父と思う人が多く、小学生の私にとってたまらなく不満だったようです。都庁の保養所で、仲居さんが私におじいちゃんがと話してきたので、ムキになって私のお父さんです、と不満そうに、抗議をした事をよく思い出します。そして、苦笑いしながら、懐かしく思い出します。中学生頃までの両親と私について書かせていただきました。次回その後の人生を書かせていただきます。