母の人生

母は明治四〇年三月十一日に佐渡で生まれて、平成二十年三月十一日に101歳の誕生日に亡くなりました。明治、大正、昭和と、三代を経験した、希少価値のある人生でした。28歳の時、一回り違いの父の元に嫁ぎました。母の実家はある程度裕福な特定郵便局で、両親を早く無くし、年の離れた兄が親代わりで、育ててくれたました。三人姉妹の1番上の姉は、佐渡の裕福な農家に嫁ぎ、もう一人の姉は新潟県長岡市の教育者に嫁ぎました。母は親代わりの兄に、特に可愛いがられたそうです。二人の姉と違って、中々縁遠く、嫁ぎ先が決まらず、当時としては、出遅れ娘だったようです。 その頃、東京目黒区役所務めとなった父との見合い話になり、話が進んだようでした。不運な人生を歩んできた父と、はやく、両親を亡くし、縁遠く過ごした娘時代の母、巡り合わせは、その後の経過は吉と出たようです。親代わりの兄は、妹の結納の品等では、着物、履物他色々出来る限りの事をしてくれたそうです。結婚後は順調に経過し、長女、長男が誕生しました。田舎者の母は都会の人との生活は、父に支えられて、慣れていきました。新潟、佐渡からは多くの人達が上京してくる時代となり、父母の甥、姪達も上京してきました。母は両方の身内に分け隔てなく、大切にしていきました。両家の親戚は母の人柄からか、相談事等の、訪問は後年まで続きました。それほど裕福でない家計でしたから、大変だったと思います。母は倹約家でした。食事は普段は、質素で少量でした。姉も私も家族は全員、痩せ型になっていました。幸いにも、健康的な食生活になったようです。父を除いて三人は、健康な身体を維持する事ができました。その割に訪問する親戚への対応は別でした。出前の寿司を振る舞い、日頃の倹約振りからは想像もつかない様子でした。私達姉弟にとっては、嬉しい訪問客でした。その時だけは私達もご馳走になれたからです。この時代の女性の多くは、夫に従属的で、家庭を守ることを第一に考える女性が多く、母は父と12歳も年下で、その傾向が強くありました。父は厳格な性格でしたが、毎月の報酬は全額母に渡し、やり繰り上手な母に家計は任されていました。母は模範的な倹約家でした、それ程高くない父の給料から、かなりのへそくりを貯めてたようです。私の中学校の時、住んでいる住宅を購入、家主から隣の家も、と勧められて、値打ちに購入しました。かなり古い建物でしたが、都心の家でしたから、地上権に価値があり、老いつつある夫婦には、貴重な財産になったと思います。父の死後も母の倹約思考は変わらず、5〜6年後には二階建ての家に改装し、費用の多くは、母の倹約からのお陰でした。自分の物には殆ど使わない、食生活物も質素でしたが、持ち家を持てたのも、改装が出来たのも、母の倹約のお陰であったと思います。だが、親戚との付き合いだけは、その後も変わらず、普段の倹約振りは影を潜めて、派手に振る舞いました。親戚の評判は良く、母の葬儀には、父方の親戚の方が多く来てくれたぐらいでした。母は亡くなる前、人生を振り返って、幸せな一生だっと、よく言ってました。私から見れば、自己犠牲の連続だったと思いますが、本人は、自分の描いた家庭像が実現できる事が最大の目標であり、自己犠牲とは思っていないようでした。

私は就職して、名古屋勤務となり、そのまま名古屋、岐阜に28年在籍、その地で所帯を持ち、会社勤めの宿命で仕方ないのですが、親不孝な長男だったかもしれません。父の死、母の死に、私は財産分与を何ら主張しませんでした。親の家、財産は結果的には、放棄した形になりました。母からは、明治の女の真の強さを感じて、立派な母の長男として、誇りに思います。母が亡くなる直前5年間、親孝行の真似ごとを少しだけでも出来た事は満足です。近くの老人ホームに、母を引き取る事が出来た事です。家族経営の仕事でしたからですからできたのですが、毎日、私、家内、息子の誰かが訪問、母の好物のヨーグルトを買って、訪問して、元気づけをしました。施設の従業員から、頻繁に訪れる家族として、感心されるのが照れ臭さく思ったぐらいです。又、月に一度は外出許可を得て、母の好物の鰻を食べて、我が家で一泊を過ごすことが出来た事です。忙しい仕事の中、何よりだったと思います。

私も今年1月に後期高齢者の方仲間入りとなりました。母の生涯にとっての満足する家庭像を理解できるようになりました。欲のない平凡な一生だったかもしれないが、それも幸せだったと思えるようになってきました。100歳を超えて、翌年の誕生日にボケる事が目立つ事なく母の長い人生は静かに終わりました。