両親と私 、 中学、高校時代

中学三年になると、受験戦争という競争世界を体験する厳しい第一歩が始まりました。私の通っていた中学は、当時補習授業として、成績順にクラス分けをして、受験競争に備えていました。都立高校に入るのが一番の目標でした。私立の高校は滑り止めの受け皿でした。私の父は私立の高校の学校案内を集めて、ランク付けをして、2、3の候補を薦めてくれました。普段厳格な父も、親バカな一面を見せたようです。結局自分の実力にあった高校に合格、入学金他諸費用を払いました。当時、都立の高校は合否の発表が遅くて、滑り止めの私立の高校に、諸費用を払う必要ありました。残念ながら、都立高校は不合格でした。都立高校に合格すると、私立高校に払った費用は無駄になります。不条理な事だと思いました。そんな思いの時、私立高校で学費の納入を都立の合否の後まで、待ってくれる高校がありました。良心的なこの高校は、併願の生徒が多く、都立優先だったので、定員割れとなり、二次募集をしていました。私はこの高校に、凄く魅力を感じ、両親に受験してみたいとお願いしました。それほど裕福でない我が家でしたが、私の希望を叶えてくれました。入学後、この高校は教育熱心で、大学受験に力を入れてくれました。この高校に入学して良かったと思いました。その後、良心的な高校と評価され、多くの受験生が応募し、数年後には全国でも優秀な名門校と変身して行きました。私が入学した時から、この兆しはあったと思われます。大学受験に熱心でした。英語、数学に力を入れていました。四クラス同時授業で、成績別のクラス分けして、能力を伸ばすやり方で、力をつけてもらいました。親しい友達4、5人は毎日新宿の図書館に通いました。新宿図書館は夜9時まで開放していましたので、良きライバルとして、競い合う場所として、最適な場所でした。受験の時には、都立高校の二流程度の力がついていたようです。私は両親が老いていたので、受験浪年はしないように言われていました。父は六十六歳になり、六〇歳以上の希望退職候補で毎年打診を受けていました。私は背水の陣で、受験に臨みました。残念ながら目標にした大学は不合格になり、第四志望の大学に入学することになりました。私の友達の5人は浪人することになりました。

友達は、翌年は一流大学を目指して、1年後の再会を約して、別れました。私の入学した大学は法学部が看板で、司法試験の合格者がトップ級でした。二年になる時に学部編入試験で法学部に編入を密かに狙いました。受験時代と同じように、図書館通いを続けましたました。努力が実り、法学部二年生になることができました。両親は内緒で受験した事を、驚いたようですが、合格した事は本当に喜んでくれました。

私の親しい友人のうち、3人は私立の最も高い二つの大学に合格、残りの友人もそれ相応な大学に進学、図書館で競い合った、仲間達の受験戦争はなんとか、無事終了しました。私の両親は友人達が、難関大学に合格した事で、浪人させなかった事を、悔やんだようですが、私は法学部編入で、1年無駄にしなかった事が、良かったと思うことにしました。漸く、大学生活をエンジョイ出来る、今思うと、仲間達との思い出作りが出来た、大切な楽しい時期は、又、次回書きたいと思います。

その頃の父は家族思いで、家族旅行が好きでした。早くして、父親を無くした不幸な境遇の幼年期が、原因にあると思います。

倹約の母は苦労したと思います。裕福でない家計でしたから、日々の食事は質素でした。

唯、誕生日とか、特別の日には、私の大好きな、すき焼きをやってくれたり、今思い出すと、感謝、感謝です。

読書家の父は、趣味として、尺八が好きでした。愛好家の方がよく我が家に見えて、演奏したり、語りあって、楽しんでいました。父は仕事より、自分の趣味を大切にしてたようで、企業戦士として、鍛えられた私には、羨ましい人生を送っていたようです。ほとんど毎日、定時に帰宅して、日曜、祭日休み、趣味の読書、尺八などを楽しめる公務員は、楽な職業だと、子供心に思いました。次回は両親と私    老年期の父母と大学生活とその後、を書かして頂きます。