就活は結果次第です。その一
年を取ったせいか、31年間お世話になった会社のOB会に参加するたびに、自分の就活の選択がどうだったのか、思い出しながら、楽しんでいます。
私が入社したのは昭和40年です。
その頃の就活は、大学4年になってから始まりました。
私は金融関係の損害保険を希望しました。
一流会社と言われる企業は夏休み前には決まってしまう流れでした。
損害保険会社は人気度が高いので、目標を二流の会社に下げて受験することにしました。
一社、二社と続けて不合格となりました。
夏休み前に内定を取ることの目標は、叶いませんでした。
大学のゼミの教授からの推薦状を頂き、万全の態勢での受験の一社も、結果は不合格でした。
就職試験への自信が全く、持てなくなってしまいました。
夏休み中で東証一部の会社の募集は終了すると言われていました。
両親も、心配しているようでした。
父は退職後、脳梗塞で要介護が必要でしたが、親友に私の就活を相談したそうです。
東証一部に上場の建材メーカーの受験を勧められました。
私は希望していた職種ではなかったが、
早く就活の束縛から解放されたいと思って
この話に飛び付きました。
東証一部にかろうじて上場している会社で、石綿を使用した不燃建材を製造、販売している、会社でした。
早速、会社訪問して、受験させて頂くことになりました。
ペーパーテスト、面接と順調に進みました。
最後の希望の夏休み中の内定、神様に祈る気持ちで、連絡を待ちました。8月のお盆前、内定の通知を頂きました。
この内定通知の結果は、家族みんなを大喜びさせてくれました。
私、両親の学生生活の最大の目標が、多少の不満が残ったが、一部上場の企業に内定でしたので、満足していました。
4月1日入社式が行われました。
その後、新入社員研修が、40人の同期生参加で実施されました。
研修の最終日に、新入社員としての赴任先が決定すると事になっていました。
決定する日が来ました。
受け取った辞令には名古屋営業所勤務と書かれていました。
勤務地は東京か関東と思っていたので、がっくりでした。
ゴールデンウィークの4月30日に来るように言われました。
新幹線で来た下さいと言われました。
開通したばかりな新幹線に乗れるとは思っていなかったので、快適な気分での準備となりました。
初めての新幹線、気分良くしての初出勤は、
名古屋支店応接室での総務主任からの面接から始まりました。
私の所属、住まい、食生活、等の説明後、支店長から、支店の概要を説明され、ベテランが多く、若手の頑張りを期待したいとの激励の言葉を受けました。
ここまでは良かったのですか、その後が最悪でした。
私の教育係として、課長の面接を受けました。
私が、そろばん、建築図面の理解度が全く無い
とわかると、本社は役立たずをよこしたと、
目の前で、酷評されました。
悔しくて、無性に腹が立ちました。
逆に反骨精神も芽生えました。
毎日、お叱りを受けることが多く、ストレスが続く毎日でしたが、飲み込みの悪い事は承知していましたので、いつか、見返してやろうと、1年は 頑張っていこうと、決心しました。
半年が過ぎた頃、教わってない事で、お叱りを受け、初めて反抗をしました。
この時は、一歩も引かず、徹底的にやり合いました。
この一件から、お叱りを受けることがなくなりました。
自由にやらせて頂くようになりました。
初仕事も、無難にこなし、自信が持てるようになりました。
完成した倉庫の屋根材、壁材に自社製品を見積もりから受注、施工まで、やり終えた時は屋根に登って、嬉しさを確認したぐらいでした。
紆余曲折があったが、良い会社に入社することになったと思うようになっていました。
2年目を迎える頃には、担当先も大手のゼネコン、大口の建材店を持つようになり、
漸く営業マンらしくなったと言われるようになりました。
就活に入ってから、第一の目的は達成出来なかったし、半年間のストレスは大変なものでしたが、それ以降は、結果として、入社した会社は、私にとって、ストレスを感じさせない、満足でき会社でした。
就活で希望通りいかなくても、入社した会社が、自分に合うかどうかが、大切だと思います。
その後は、又書かして頂きます。
で